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いかりや長介「役者は自分の生き様も芸もふくめて、見ている人に勇気を与えたりできる」 [俳優・女優]

「ザ・ドリフターズ」をのリーダーはご存知でしょうか。
「8時だョ!全員集合」「ドリフ大爆笑」など
お笑いグループのリーダーであり、
俳優として、渋い役をやってきた役者。

「いかりや長介」

彼は、なぜお笑いを目指し、俳優を目指したのか。


C754_minatomiraidouro500.jpg○いかりや 長介(いかりや ちょうすけ)

1931年11月1日、東京都墨田区で生まれる。
父親は、運搬の仕事をしており、
母親は、主婦として父親を手伝っていたが、
いかりやが4歳の頃、結核で母親を亡くす。


○バンドマンとして

高校に入学したが、すぐに退学をして、
静岡の製紙工場に勤務する。
そこで、同僚とハワイアンバンドを組み、
ダンスホールでバンドを活動する。

いかりやがなぜ、バンドをやりたかったのかは、

「女性にもてたいから」ことから始めたという。

1959年に上京をすることを決めて、
新宿二丁目のアパートに住むようになる。
いかりやは、カントリーウェスタンバンド

「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に参加。

いかりやは、ベースとして参加した。

1962年、加藤茶が参加していた
バンド「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。
のちに、桜井が引退した後、
いかりやがリーダーとなる。
バンド名も改名し、

バンド「碇谷長一とザ・ドリフターズ」

で活動するようになる。

(いかりや長介は芸名であり、本名は、碇谷長一になる。)

1964年、仲本、高木、荒井を加えて、
「ザ・ドリフターズ」を再結成させる。

1966年には、ビートルズが日本武道館でLIVEを行うようになる。
そのときバンドの前座として、「ザ・ドリフターズ」が演奏した。


○日本のコメディアングループ

「8時だョ!全員集合」「ドリフ大爆笑」で
大人気になった、ドリフターズ。
ドリフ時代のギャラ配分は、最初は、全員均等にされていたが、
のちのち変更になり、いかりやが6他が1:1:1:1となる。
そのため、メンバーから嫌われるようになる。

「8時だョ!全員集合」の打ち合わせは、
テレビ開始の二日前に集まるようになっていた。
いかりやが中心となり、ネタはすべていかりやが考えていたため、
他のメンバーは、ネタができるまで黙っていた。
作家が、提案でネタをいうが、
いかりやは、断っていたという。

いかりやの著書でも、

「彼らのネタは机の上でしか考えてないようなネタや、
また面白くてもドリフではできないネタばかりだった」

と書いてある。

お笑いとして、代表的ギャグといえば、

「おいっーーーーす!!」
「だめだこりゃ!」
「次行ってみようー!」など。

ドリフとしては、
ボスとして周りからは、嫌われるキャラを
構築して、主にツッコミ役を演じた。
60歳を超えても、大量に水をかぶったり、
体を張ってコントをしたり、
笑いをとるプロ意識がすごいと思う。


○俳優の道

1985年、俳優、タレントとして活動を行う。
1987年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で俳優として
ブレイクするようになる。

1997年「踊る大捜査線」で刑事役として活躍。
「全員集合」を知らない若者ファンからも大人気になる。


○名言

「いかりや長介」の素敵な名言をご紹介。

役者は自分の生き様も芸もふくめて、
見ている人に勇気を与えたりできる

ドリフターズ時代の名言でありますが、
音楽もコメディアンなど
相手に伝えることができると思います。

僕は、よく音楽を聴くんですが、
落ち込んだ時は、明るい曲を聴くと
なんかウキウキしちゃいますよね。

僕たちも、周りの友達がもし落ち込んでいたら、
ちょっとでも話を聞いてあげるだけでも、
相手にとっては明日から勇気がでるかもしれないですね。


N.h


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